パン職人は夢がある?|過去を振り返る
新年を始めるにあたって自分の過去を振り返って見ることは、これからの一年に良い影響を与えるかなぁ~と思っています。
あなたの過去は現在のあなたを作っていますよね。
私もそうです、しかし必ずしも自分が望んだものとはリンクしていない部分もあると思います。
なぜでしょう?
私にはよく分かりませんが、自分の中の無意識が関係しているように思います。
その無意識(その人の性格といっても良いでしょう)を意識すると少しずつ改善していくのではないでしょうか?
そんな、心理的作業には自分自身の過去から学ぶ事が良い方法の様に感じていますのでここで、私の過去を振り返る事で自分自身の棚卸しをしてみたいと思います。
高校生時代の自分
私は、クリスチャンです。
物心ついたときには毎週日曜日には教会へ行きミサという礼拝を行っていました。
これが子供にとって非常に退屈なものでした。
更にめんどくさいのは、男子は侍者と呼ばれるミサの進行のお手伝いをしなくてはいけませんでした。
司祭と共に祭壇に出て、スカートの様な黒い布と白い上着、方には真っ赤なケープを着け、司祭に合わせて立ったり座ったりを繰り返します。
聖変化というパンがキリストの身体に変わるとされるタイミングではベルを”チリリン〜”と鳴らさなくてはいけません。
ぼうっとしてると忘れてしまい、よく母親に怒られていました。
そんな、いい加減なクリスチャンでしたが高校進学の際、司祭を目指す事になります。
今考えると、単純な現実逃避だったと思います。
高校三年間を神学校という高校の敷地内にある施設で暮らしました。
神学校とは、共同生活をする寮のような側面とミサやその他の努めを果す為の修道院の様な側面を持ったものでした。
入る前は、きっと心の優しい人たちの集まりだろうと思っていましたが、全然そんな事はありませんでした。
いじめ、喧嘩、など日常茶飯事でした。
結局、高校三年間で心は司祭への道から遠く離れてしまいました。
離れて行く過程で大学進学は不誠実であるような気持ちが芽生えてしまいました。
兄弟三人いますが、大学へ進学しなかったのは私だけでした。
何故、不誠実と思ったかと言うと高校三年間の学費、生活費は修道会が全額負担してくれていました。しかし、自分は裏切って司祭への道を離脱する訳です。
子供心にも、このまま普通の大学に進んだら私は学費や生活費をふんだくった詐欺師になってしまうのでは無いかと考えたからです。
しかし、それは非常に浅はかな考えであると今では感じています。
少し長くなりそうなので今回はこの辺で終わらせて次回、私が何故パン職人の道を目指したかについてお話を進めていきます。